文化を考察することについての一考察。

目医者に行き忘れる。
コンタクトがピンチです。


>現在は残念ながら、建築の表層だけを取り上げている「痴的・建築ジャーナリズム」が横行しているように見えないでもないし、デザイナーもまるで「芸能人」のような気分で振る舞っているように見えないでもない。
「何が正しく、何が誤り」と決め付けることは、「文化」の自滅行為ではあるだろうが、「建築」を求める人にとって、何が最も重要なことであるかは、常に考えておかなければならないのではないかと・・・。

udf weblogからの引用。
私は一つのことだけを見据えて何かをするほど強い目標があるわけではないが、
あれがかわいい、これがかっこいいとふわふわ移り気に生きていけるほど幸せでもない。
それがどこまで良くてどのあたりは欺瞞かはよくわからないけれど、
上記の引用文の言うことはとても正しいと思う。
「文化」を「文化」たらしめる知的な基礎っていうものがあるでしょう、ということです。
すべての人が完全な知識を蓄えることなんて不可能で、
むしろそんなことができたら社会構造は激変すると思うのだけど、
そうでなくとも「文化」はそれなりの歴史や思想の積み重ねがあるから「文化」と言えるわけで、
「文化」を語ったり作ったりするならそれに敬意を払わなければいけない、と私は思う。
敬意というのは、最低限の知的基礎と感受性をもって今まで築き上げられたものに尊敬の念を持つこと、である。
だけど「文化」を消費する人たちにそこまで求めるのは酷なんじゃないかしら。
そういう状況を前提としたときに考えなければならないのは、
消費者(=受け手)におもねりすぎてはいけないということだ。
そして自分が消費者である場合には自分が何も知らない消費者であることを自覚することだ。
そのどちらかが欠けると上からものを見る伝道者であったり
知ったふりをして結果として文化の質を下げる大衆であったりしてしまうんじゃないかな。
文化って、一人の人がどうこうできるスケールのものじゃないんだから。
だから尊いわけですし。


文化に携わる人は、現状として例えば女の子たちが「きゃーかわいいっ」って言ったものが
一大ムーブメントを引き起こしたりすることがあることを認識するとともに、
そういうものの本質を探る視点を持って検証し続けるべきだと思う。
きゃーかわいいって騒がれるもののなかには
くだらないものも価値を見いだすべきものもあると思うのです。


世の中で活躍することと学歴は完全な連関性はないと思うのだけど、
少なくとも「大学を出る」という学歴というのは、
勉強が出来るとかものを少し知ってるとかそんな表層的なことじゃなくて、
そういった知的な基礎を以て検証できる客観性を持ち得るか、だと思う。
例えばある事象について、表層は非常にミーハーであり本質は難解であるとすると、
それがそういうものであると見られるかどうかが「客観的な検証」なんじゃないかな。
難解な部分を理解できるかどうかは頭の良さだと思うので。
けれど大学生の中にも才能である部分の頭の良さが表層的に見えないことにとらわれて
少し考えてそういう自覚を持って訓練すれば身に付くインテリジェンスを拒否する人がいる。
もったいないなぁー。
学術研究的な頭の良さと、身につけるべきインテリジェンスはある程度別物であるということを
どこかの段階で知らせることが出来たら
日本の「文化」レベルってもっと向上する気がするのだけれど。